鷲田清一さんの講義で「COMME des GARCONS」の92年秋冬のコレクションビデオを観賞しました。

 
 毎週金曜の3限4限は、文学部で鷲田清一さんの「モード論」講義を受講しています。
場所は文経法講義棟の法23(大きめの部屋)です。
 
 講義の形態は、NHK人間大学『人はなぜ服を着るのか』のビデオを見た後、
鷲田さんの講義*1が45分程度あって、
その後、鷲田さんのファッション萌え話*2を数十分ほど聞いて、
コム・デ・ギャルソンのコレクションの映像を観賞するというスタイル。
 
 で、今日は「COMME des GARCONS」の92年秋冬のコレクションビデオを観賞しました。
 鷲田さんが、「もう川久保玲さんは服を作ることに絶望してしまったのかと思って、寂しくなった。」
と形容するこのコレクション。
服の部分としての記号的役割(自明性)を強烈にバラバラにされた形でモデルの身に着いている、
「黒い、服のような布」ひとつひとつがランウェイに出現するその瞬間瞬間が
緊張と驚愕の連続です。服を見ているだけで鳥肌が立ってきます。
 
 そして、服を着たモデル同志(ママ)が交差する瞬間に感じられる、独特の緊張感と
ある種の連帯感が、COMME des GARCONSが都市をベースにする、ある種の人々にとっての
唯一「安心できる服」であることを思い起こさせます*3
 
 終盤に登場する、白と黒の生地で作られた、手を正面で拘束する服は、
ある種の人身御供儀礼を想起させ、何か凄まじい力の前での覚悟のような、
宗教的なやばさがありました。凄い!
 
 このビデオを見たせいで、その日は終日異様にテンションが高くてやばいことに。
 

*1:かなり高レベルな哲学論のはずなんだけど、わかりやすい名講義

*2:ここで、えらく楽しそうに萌え話をしてはる鷲田さんは見ていて萌え。

*3:この点、ゴス服、ロリ服なんかも共通点があるかもしれないけど...ギャルソンの服は甘くない。ギャルソンの服は極めて近代個人主義的な服です。